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谷中 護国山天王寺 毘沙門天

谷中 護国山天王寺 毘沙門天

 思い返してみると、自分にとって七福神巡りは、谷中から始まったのだった。最初に訪れたのも、たしか駅から近かった、こちらの天王寺だった。創建が、文永11年、鎌倉時代後期にあたり、感応寺といい、都内でも、とても古い歴史を持った谷中一番の古刹である。全盛期の江戸時代、このあたりは、すべからく天王寺の寺域だった。今では、もと五重塔があった場所も、明治初期に移管され、都管理の谷中霊園として整備管理されている。なお、この毘沙門堂の一部は、五重塔が焼け落ちた際にも焼け残った木材を使って建てられている。そのあたりを思うと感慨深い。



▽ しだれ桜と毘沙門堂

 いまでは、JR日暮里駅のホームから見あげた崖上で、すっかり静かな高台。さすがに名刹、きちんと整備され、履き清められていて清々しい境内。現在は、天台宗の管轄なので、禅寺さんだから、堅い感じですね、開かれては居ない。毎月、3日が、毘沙門さまの日、護摩供で、旧山門入って、すぐ右手に有ります=毘沙門堂で朝10時からご祈祷があります。毘沙門堂前には、古井戸があり、また阿弥陀如来を祀った本堂前には、娑羅双樹と書かれていますが、実は違って、エゴノキ科のハクウンボクが緑色の実を付けていました。▽ 写真、中央の樹です。左奥には、谷中大仏とか、天王寺大仏とも呼ばれた銅造釈迦如来坐像=大きな丈六仏が屋外にある。



木造毘沙門天立像についての台東区の資料より抜粋。 :



 本像は、ヒノキ材の一木造いちぼづくりで、体内をくりぬかない彫法によって作られています。量感あふれる体型と頬と顎の張った表情や、大袖の特徴ある衣文の彫りは、その作風から平安時代中期(10世紀)ごろの作品とみられます。像高は116.8センチメートル。頭、体とも正面を向き、邪鬼の上に立ち、左手に宝塔をのせ、右手には宝棒を握っています。



 天王寺は、もと感応寺という日蓮宗の寺院でしたが、元禄11年(1698)江戸幕府の命令で天台宗に改宗させられました。この改宗にさいし、京都の鞍馬寺が比叡山の乾いぬい(北西)の方角にあり毘沙門天をまつっていることになぞらえて、寛永寺の乾の方角にあたる天王寺にも毘沙門天を迎えることになりました。こうして本像は元禄12年比叡山からもたらされ、この寺の本尊になりました。天王寺の毘沙門天は、江戸の人々の信仰を集め、多くの参詣者でにぎわいました。江戸時代後期からは、谷中七福神のひとつに数えられ、いまも庶民に親しまれています。



 本像とともに指定をうけた感応寺毘沙門天王記は、享保16年(1731)寛永寺凌雲院実観の筆になるもので、本像が比叡山から天王寺に移された経緯がくわしく記されています。
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